2019年10月12日土曜日

我を捨てる‐夏の思い出‐

 「今はもう秋、誰も居ない海」この時期になると、この歌が何時も思い出される。過ぎた夏、今年の夏を思い返す時、「我を捨てられない」人々の姿が浮かんで来る。「徴用工」問題を巡り日韓両国の軋轢は大きい余波を生んだ。「解決済み」とする我が国の政治家の姿勢。最高裁まで持ち込んだ韓国の人々の思い。何が正しいのだろうか?韓国では日本企業を相手取った元徴用工や遺族による賠償請求訴訟が頻発している。ただ、元徴用工に対する補償問題は「日韓請求権協定」で解決済みであり、日本が韓国に有償、無償で計5億ドルの資金を供与。当時のレートで約1800億円、韓国の当時の国家予算の約2年分にあたる。協定では「完全かつ最終的に解決された」としており、無償供与分には個人補償に充てるべき解決金も含まれていた。これらの事実をよそに、韓国の文在寅大統領は今年8月、就任から100日の会見で「元徴用工の個人請求権はまだ残っている」と述べた。だが、その翌週には安倍首相との電話会談で発言の修正をしている。韓国国内では徴用工被害者の個人補償が充分に為されて居ないのが実情のようである。徴用された方々、当事者達の心には、「解決済み」とは割り切れないものがあるのである。「心の問題」である。

 第二次世界大戦において、我が国は侵略戦争を仕掛け、アジア諸国に対し大きな罪を犯した。それに対して、「罪責告白」は為されてないのが実情である。フイリピンを訪問した際にも「罪責告白」の必要性を痛感した。「解決済み」と「我を張る」前に、「何故か」と一歩下がり、静かに自省する心が必要ではないか。これは徴用工の問題ばかりでなく、家庭、社会、教会の中でも言えることである。「我を張る」ことでは「解決済み」にはならない。自他共に不幸になるばかりである。真の平和は実現しない。「頭を垂れて」歩みたいものである。

2019年8月26日月曜日

婚約式・結婚式のすすめ

 先日親族が集まる機会があった。40代半ばの甥の傍に素敵な女性が居り、笑顔で挨拶された。「叔父さん俺、結婚しました。」つい2年前に会った時はそんな話は何もなく、「相変わらずですよ・・・」と言っていたが、「ビックリポン」であった。「籍だけ入れました」とのこと。最近この様なケースを良く聞く。この様な場合、何時も思うことは、「大丈夫かな・・・」という不安である。人生の新しいスタートに当たり、「このカップルは何をバックボーンとして生きて行くのか」という不安である。
 今年の正月、別の甥夫婦が遊びに来た。この甥も昨年入籍したとのこと。牧師という立場上、一応「私が司式するから結婚式ぐらい挙げたらどう?」と勧めて見たところ、今秋に挙式することが決まり準備をしている。
 遠い学生時代、ゼミの恩師からは「君たちは結婚の時はキリスト教式でしなさいよ」と勧められていた。ご縁があり、私達は竹前昇先生に挙式して頂けた。先生は創世記2章24節「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」を引いて説教された。「神様が二人を合わせて下さった。神様に対する責任がある。しかも何人も二人を離すことは出来ません。」と言われた。そして「離婚したくなったら神様の前で『離婚式』をしなさい」とも言われた。後日竹前先生にお会いした時、大笑いになったが、それだけ、「結婚」には意義があり神様に対する責任があるということを知ることが出来たのである。当時まだ洗礼は受けていなかったが、私達は神様にしっかりと守らているという思いが増し加えられて行き、数年後、二人同時に受洗の恵に与ることが出来た。結婚に際しては、やはり「結婚式を挙げること」が肝要と思える。何よりも、結婚の意義、人生を深く考え学ぶ機会となるのである。そして、伝道の機会にもなる。
 7月に教会員の方の婚約式をした。11月に結婚式を挙げる予定だが、司式のお申し出を頂いた時、本当に嬉しかった。まず、「婚約式をして下さい」とのこと。お相手の男性はキリスト者ではなく、そのご家族は日本式の所謂、「結納」を交わし、神前結婚を希望されていたとのこと。しかし、彼女の熱意により、キリスト教式で行うことになったのである。
 彼の出身地には神学校時代に伝道実習に行ったことがある。礼拝出席が20名に満たない教会が幾つかあった。ある女性がオルガンの代わりにバイオリンを使って奏楽をしていた。日曜日にはバイオリンを持ち教会に来るのだが、それは「ご近所の関係上、やむを得ない」とのことであった。「教会に通っていることが知れたら、近隣の方々との交際が出来なくなる」とのこと。「日曜の朝はバイオリンのお稽古」としているとのこと。今の時代、まだまだキリスト教が理解されない現実があるのである。その様な中で婚約式が行われたのである。もちろん彼のご両親も出席された。
 式場は都内の一流ホテルのチャペル。ブライダル担当者は「婚約式の経験が無い」とのこと、そして担当者の仲間の方々が「見学」の為に参列して下さった。私は創世記から結婚の意義を語り、そして、コロサイの信徒への手紙3章12節以下「03:12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 03:13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 03:14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 03:15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 03:16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」を引いて語った。婚約から結婚式までは、結婚の為、その後の生活の為の準備期間である。このみ言葉により、お互いの心の準備をして頂きたいと説教を結んだ。彼のご両親からは感謝の言葉を頂けた。「結婚式が楽しみです。」とのこと。ブライダル担当の方々からも、「良い経験が出来ました」とお言葉が頂けて感謝であった。
 結婚に際して、人生を良く考える時として欲しいものである。「好きだから」「愛し合っているから」当然な思いである。「とりあえず籍だけ入れておけば・・」余りにも空しいと思えるのである。二人は何に拠って生きて行くのか?どう生きて行くのか?学んで欲しいものである。
 そして、「二人の結婚」は神様はもとより、両親をはじめ周囲の人々に発信して祝福の中に行われることが「ふさわしい」あり方ではないだろうか。前述の私の恩師は私達の結婚披露宴で「『世界は二人の為に在るの』、ではなく、二人は世界の為に在ることを忘れてはならない」と語って下さった。大いなる神の御前で、婚約式、結婚式を挙げて、神のご栄光を豊かに表しつつ歩む方々が増し加えられることを願うものである。
 当該文書は埼玉地区ホームページに今月掲載された、私の「今月の説教」を編集加筆したものである。(2019年8月23日川口教会牧師室にて)